例年のごとくのお盆の喧噪が過ぎると、もう夏も終わるのかなと思う。
どこかで子供の頃の記憶と重なるからだろうか?
子供の頃の私は毎年お盆の時期を母の実家で過ごしてきた。
一つ年上のいとこがいて、ちょうどよい遊び相手にも恵まれていたこともある。
夏休みの子供の一日はなかなか忙しい!
朝食を済ますと、早速家の周囲でセミ取りに興じたり、裏の空き地にある大きな木に登ったりして半日過ごす。
あっという間にお昼ご飯である。
昼食が済むと今度は海水浴に出掛ける。
家から4~5百メートルも歩けば海岸の波打ち際だ。
家を出るときから水着にサンダルを履いただけの格好である。
今ではウインドサーフィンのメッカになっている海岸だが、当時は観光客など全くいなかった。
地元の子供たち専用の遊び場だった。
ひとしきり海で遊んで、遊び疲れたところで家に帰るのだが、帰りには海岸近くにある畑から黄色く熟れたまくわうりをいくつか取って帰る。
真夏の海岸で遊び疲れた子供たちを待っているのは程良く冷えた真っ赤なスイカだ。
思い切り遊んだ後で、おなかがすいてのどは乾ききっているので味は格別である。
大きな冷蔵庫などはまだあまり普及していない時代で、スイカは井戸の中に入れて冷やしていたが、その味は、今冷蔵庫で冷やしてつめたくなりすぎたスイカに比べて、ずっとおいしかったような気がする。
一息ついたら、今度は近所の駄菓子屋に出掛ける。
お菓子を買うことが目的ではない。(もちろんお菓子も買うが)
夜になって遊ぶ花火を買うのである。子供なりに値段と相談しながら、できるだけたくさん色々な種類の花火を買いそろえる。
駄菓子屋はまた、近所の子供たちの社交場でもある。同じ年頃の子供たちととりとめのない話をしながらじゃれあっているうちに夕暮れ時になる。
お墓参りに行く時間である。
お墓は、昼間海水浴に行った海岸へ行く途中にある。
お盆には毎日お墓に行って、松明を焚いてお線香を上げてお参りをしてくる。
そして、もどってくると屋敷の入り口にも松明を焚く。
それが母の実家での子供たちの役割だった。
それが済むと夕食である。夕食のデザートには昼間畑から取ってきたまくわうりが出る。もちろん井戸でおいしく冷やしてある。
私にとって夏の味覚の第1番はなんと言ってもこのまくわうりだ。
あのシャリッとした歯触りと食感に、ほどよい甘さはなんとも言えない!
グチャグチャとしてやたらベタベタ甘く値段が高いのだけが取り柄のようなマスクメロンなど比べものにならないと私は思っている。
今でも夏になるとこの思い出の味を求めて、周辺の農家の産直の店をまわる。スーパーの店頭に並ぶきれいな色の形の整った同じような大きさのものを見てもあまりおいしそうには感じない。それぞれ個性的な形をした大小さまざまのまくわうりが転がっている中から選んで買ってくるもののほうがおいしいような気がする。
夕食後は、駄菓子屋で買ってきた花火で遊ぶ。周りに家の明かりのない田舎の家の真っ暗な広い庭でする花火は一層はなやかである。
こうしてあっという間に1日が過ぎ、そして、お盆の数日間が過ぎていくのである。
もう家に帰らなくては・・・と思う頃になると、裏の空き地の大きな木からツクツクボウシの声が聞こえてくる。
この声を聞くと、もう夏休みが半分過ぎちゃったと、妙に寂しく不安な気持ちになった。
今ではツクツクボウシの声が聞かれるの時期が以前よりも随分早くなったような気がするが、夏が過ぎていく妙な寂しさが込み上げてくる感覚は、あのころから何十年もたった今でも変わらない。
いや、一層強くなったような気もする。
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